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姫街道と気賀関所

姫街道は愛知県の御油宿から静岡県の見付宿までの約60キロメートルの道で、東海道の脇街道、別名東海道本坂越、本坂道、本坂街道 などと呼ばれ重要な街道でした。この脇街道が江戸時代幕府御用道として注目されるようになったのは、宝永四年(1707年) 東海道筋を襲った大地震で浜名湖口から新居宿一帯が大打撃を受け東海道が通行困難になったため、臨時に姫街道を往来するよう になったのです。姫街道の名前の由来は大きく分けて二つの説があります。一つは、姫様や婦女子が通ったからいう説。もう一つは 「ひね」(古いという意味)の街道という説
一つ目の説では、@東海道の新居関所は婦女子に対して取締りが厳しかった。A舞阪、新居間の海の危険を婦女子が避けた。
二つ目の説では、万葉歌が東海道の方にはなく、脇街道にのみ残っているので、この街道を昔の主要街道として「ひね街道」と 呼んでいたのが「姫街道」となまって変わったというのです。
気賀関所は慶長六年(1601)に徳川家康によって創設されたといわれている。敷地は547坪(約1.805u)で裏に竹薮117坪 (約386u)、東側に冠木門、この門を入り正面となる北側に旅人を調べる気賀関所本番所、南側に相対して牢屋が設けられていた向番所、 さらにその南に遠見に使用された遠見番所、西側は町木戸門で気賀宿と接していた
本番所(全景)
気賀関所の関守は、元和五年(1619)から明治二年の関所廃止まで旗本近藤家が代々拝命した。番頭二名、平番四〜五名が主に 取調べに当たった。関所に常備された警備用具は初めのうちは実用的に配備されたが幕府体制の確立以後は関所の威厳を 備える装飾的なものになった。
幕府は江戸へ武器が大量に持ち込まれる事を恐れ、参勤交代の大名の鉄砲携帯に数的な制限を加え、入り鉄砲の関所通過を厳しく 調べた。また、女改めは、手形の発行者や押してある印鑑、記載事項を調べ、もし違っていれば記載違いなどとし、 通過を許可しなかった。関所役人の母親など姥があたった。

気賀関所東門
気賀関所
本番所
本番所風景
気賀関所西門
本番所の相対
女改所
気賀関所牢屋