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足利義教の墓と浜松の起源
浜松市西伝寺町
★ 法然上人と西伝法師の墓
   浄土宗をお開きになった法然上人の弟子西伝法師は、上人御入寂(1212)後
   分骨を請ふて、大石塔を造立して供養す。
★ 足利義教公と西光尼の墓
   将軍足利義教は、余りに権臣の威圧に努めてた為赤松満祐に嘉吉元年(1441)六月二十四日かれの自邸
   に招待の折、殺害された。義教公の乳母西光尼は、義教の遺髪を乞うふて郷里の本郷町に葬り、尼となって
   庵室を営み後世を吊ふと、これ西光寺(当山末寺)にして明治四十四年に合併し廃寺になる。土地改良
   事業施工により、昭和三十八年此の所に移転改葬する。
★ 義教と浜松(地名)の起源
   六代将軍足利義教は、威お、関東に示さん為将士を率ひ永享四年(1432)九月壱十日京都」を溌し、
   十六日海辺を進みて一大松樹の下に来て。宴を催し「浜松の音はさざんざ ざざんざ」と謡ひ、さらに東して
   駿河に到ると、之より」音羽の松と称し、浜松の庄の名も之によって起こり、家康」入城と共に駅名と
   なるといふ。