伊能忠敬佐鳴湖測量
       浜松市西区

古くから猿投の浦(さなげのうら)、左奈池(さなのいけ)、佐鳴ヶ浦、入野池、佐鳴湖などの多くの呼び名で 親しまれてきたここ佐鳴湖にはじめて測量のための杭(くい)を立てたのは1805(文化2)年3月18日 当時江戸幕府の天文方であった伊能忠敬(いのうただたか)であった。
当時の測量日記には、「佐鳴ヶ浦を眺望し富士山やその他の山々の測量をした。夜は曇天であったが雲間を みて天体観測をした」と書かれています。
測量隊は黒字に白く「天文方」と染め抜いた旗を先頭に地元から集めた人足を含め十数人であった。
測量は幕府の御用であるから浜松宿に対して協力方の要請があり、浜松宿問屋は「天文方御用急廻状」を 各村々に回して協力するように指示を出しているが、食事については粗末でよいと気を使ったところもある。
測量技術の進歩した今日では、光波などを使用して簡単にできる測量も当時は大変な努力を払ったと思われるが、 この測量のデータは忠孝の死後の日本初の実測精密地図(大日本沿海興地全図)となって後世に残る貴重な資料となる。