磐田市赤松家 

磐田市見付

赤松家は近代日本造船技術の先駆者として又明治期に磐田原台地に茶園を開拓した赤松則良が、明治26年(1893)見付の地に築いた邸宅跡である。
赤松則良
静岡藩士、海軍軍人。幕臣吉沢雄之進の子。実祖父赤松泰介の養嗣子。旧名大三郎、坪井信道。信良らに蘭学を学び、安政4年(1857)番所調所句読教授方出役(でやく)に任命された。
また長崎海軍伝習所に学び、軍監操練所の教授を務め、万延元年(1860)には咸(かん)臨丸(りんまる)の測量方兼運用方として太平洋を横断した。 大政奉還した徳川慶喜が駿府へ移り住んだのち、則良は徳川家に縁のある見付に移り、磐田腹開墾に着手しました。また、沼津兵学校創立のときに教授として招かれ、 西周(にしあまね=1829〜97)らとともに兵学校の基礎を築きました。その後則良は、勝海舟の勧めもあって明治新政府に仕え、明治20年(1887)海軍中将男爵となり、 大日本帝国海軍の拡充・強化に尽力しました。

  門・門番所

門を出入りする客などを、監視したり案内したりする役目をする者(門番)の居場所です。 明治41年(1908)の赤松則良直筆の屋敷実測図には「門衛」と記されています。    入口の扉や畳敷の床の広さ、押し入れの設置などについては、平成6年の調査によると、改築等で変更された跡の存在がわかっています。
  塀(県指定文化財)

レンガ積みと三和土(たたき)積みが併用されている。門を中心とする部分には、基礎の三和土、上部にレンガが用いられるが、 それ以外は、三和土のみである。レンガ塀は長手積み手法が用いられ、一定間隔に柱を立てている。
  磐田市見付
旧赤松家周辺の地図です。