浜松市北区祝田
神社の前に広がる平野もかつては今川家の家臣として井伊家の領地でした。この一帯はかつては刑部郷といい、これは奈良時代から続く古い地名で井伊直盛
の代に今川義元に謀判を疑われた一族の直満・直義が殺害され、直満の子・亀之丞は信州に身を隠し、許婚だった直盛の娘も出家してしまいます。
弘治元年(1555)に帰還した亀之丞は名を直親と改め、神社のある祝田村にすみました。桶狭間で主君・義元ともに直盛が戦死すると直親が家督を継ぎましたが、
今川家から徳川家への離反を疑われて忙殺されます。存亡の危機を迎えた井伊家は、出家していた直盛の娘を当主としました。
女性として井伊谷領主を継いだ井伊直虎に対して、永禄9年(1566)、今川氏真は井伊谷及び祝田・都田の地域に徳政令を命じました。名を徒らは独自の判断で、
徳政令の実施を2年間おしとどめています。蜂前神社には、その時の経過がわかる古文書が残っております。
祝田の蜂前神社 蜂前神社入口をにある大きな蜂峰神社の石碑 |
祝田の蜂前神社 蜂前神社拝殿全景 |
祝田の蜂前神社 蜂前神社にある天王社 |
浜松市北区祝田の蜂前神社付近の地図です。 地図をクリックするとGoogleの地図が見られます。 |