信州阿南町 曹洞宗医王山開昌寺しんしゅうあなんちょう そうとうしゅういおうさんかいしょうじ
     
     長野県下伊那郡阿南町富草4342

千石の世に咲いた鎮魂の寺
裏切りや策略が日常茶飯事だった戦国時代は、血生臭い事件の連続です。下条氏だけを見ても、内部抗争に乗じた徳川家康の策略で最後は破滅の道へと 歩まされています。
下条氏最後の領主・12代目下条康長(やすなが)が跡目をついだのはわずか10歳の時。下条康長の「康」は徳川家康から拝受した名前で、 破格な扱いを受けていたことが伺い知れます。
父親・下条信正は、織田信長が伊那谷へ侵攻した際に黒瀬谷に落ち32歳で死亡。その3回忌の天正12年(1585年)、 菩提を弔うために康長は関昌寺を創建。領主となった翌年のことでした。
下条氏最初の仏寺である開眼寺(廃寺)から薬師如来を移して本尊としたことから、 正式には医王山関昌寺(いおうざんかんしょうじ)といいます。江戸時代には郡内屈指の大きなお寺でありましたが、その後2回火災にあって再建。 参道の両脇にはヒノキや杉の巨木が茂り、うっそうとした寺叢(じそう)を形成しています。
関昌寺の'昌'は栄えることを意味しています。

   

  医王山開昌寺

道路からの入口の門柱脇の六地蔵尊
  医王山開昌寺

参道から山門を見る
  医王山開昌寺

医王山開昌寺、本堂の全景 
  阿南町医王山開昌寺付近の地図です。
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