金原明善資料館 

  浜松市東区安間町1

1871(明治4)年廃藩置県の年、久右衛門は「学問が必要。心を豊かにできれば立ち上がることが出来る」と金原家塾(後の水利学校)という学校を始めた。
15歳〜20歳までの青少年たちに、3年間土木治水科目を学ばせ、天竜川の治水工事に当たらせ、優秀者は内務省土木局に就職させたり、大学に入学させたりした。
生徒数が多くなると、自宅南側に校舎を建設。それが発展したのが現在の和田小学校。
二俣町鹿島から掛塚港まで25qの両岸を福岡久と測量し、「天竜川は八町巾が必要」という結論を出す。工事を進める資金が無かったため、 自ら堤防修繕費として毎年1千円を献納すると申し出た。

  金原明善記念館は、天竜川の治水工事に、私財を投じて尽力した金原明善の遺品や、遺墨、関係資料のほか、明善と親交の深かった人々の遺墨や、 関係文書などが収蔵・展示されている。
平成23年(2011)3月からは、約2百年前に建てられた木造2階建ての生家が大幅に改修され、一般公開されている。金原明善生家・記念館は、明善の業績を通じて、 日本近代の治山治水事業の取り組みや自然と人との関わりを学ぶ場として、地元の小学生をはじめ県内外から見学者が訪れている。
  金原明善は、天竜川の治水事業、北海道開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した人物。
1832(天保3)年6月7日長上郡安間村(現:東区安間町)生まれ。
酒造と質屋をしている大地主の金原家に長男として誕生。父は軌忠、母は志賀子。
幼少期(弥一郎と名乗った)は弱々しく家の中で遊ぶことが多かった。住んでいるところから5km西の龍禅寺地蔵院の寺子屋に通い、その頃習った 「学問は学問の為の学問ではない、実際の為の学問だ」が金原家代々の信念となっている。 17歳のとき激しい熱病にかかったが、天竜川の水を飲み全快したことから、後年「私にとって天竜川は命の恩人」と語っている。
 
浜松市東区安間町1
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