下田 八幡山 宝福寺      

静岡県下田市1-18-26
永禄2年(1559)11月、信長の圧迫をのがれ、本願寺第11代顕如並に法孫釈了善、真言を改め開基。 文久3年1月16日、宝福寺に滞在中の山内容堂に 勝海舟が来山し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許される。当日、龍馬は町の旅館にあって、その朗報を待っていた。
嘉永7年(1854)日米和親交渉にあたり、日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれた。 唐人お吉菩提寺、お吉記念館(西ドイツ、英国に博物館として 登録されている)
慶応元年(1865)韮山代官江川太郎左衛門英武の本陣、農兵調練所趾。
明治に入り、宮城の修復のため寺有地の大半を売却して協力、 菊の紋章の仕様を許され、又第1回徴兵検査場として使用されたり、賀茂郡役所として利用されてきた。

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龍馬は伊豆下田・宝福寺で、まさに天馬となって飛翔しました。そして一気に激動の時代を駆け抜けていったのです。
お吉は身寄りもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で 法名「釈貞観尼(しゃくじょうかんに)」を贈り、当時境内に手厚く葬り、 その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っています。
お吉の悲劇的な生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私たちに教えているようです
  宝福寺と坂本竜馬
文久2年3月、国を憂う思いから、龍馬は故郷の土佐藩を脱藩します。脱藩してからの龍馬は、捕縛の目をかいくぐり、勝海舟という人物に出会い、 海舟と共に海軍操練所設立の夢を抱き、土佐の若者たちを共に海舟の下に弟子入りさせると、順動丸に乗って、神戸から江戸に向かいます。 その時、龍馬は脱藩浪人として「指名手配中] の身でした。
時を同じくして、第15代土佐藩主山内容堂は江戸より大鵬丸に上洛途上、ここ宝福寺に投宿していました。幕府軍艦奉行並・勝海舟入港の知らせに容堂は、 是非とも酒席に招きたいと使者を遣わす。海舟もまたわずかな供を連れ、宝福寺に参上、謁見をします。
  山内容堂と勝海舟
海舟は、容堂に龍馬の脱藩の罪を解き、その身を自分に預けてほしいと懇願します。 容堂は、海舟が酒を飲めないのを承知で 「ならば、この酒を飲み干してみよ!」と切り返す。すると、ためらうことなく朱の大杯を飲み干した海舟。さらに赦免の証を求める海舟に、 容堂は自らの白扇を取り出し、「瓢箪」を描き、その中に「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」と記して、海舟に手渡したのです。
この海舟の直談判によって龍馬はまもなく脱藩を許され、文字通り維新回天の活躍が 始まります。
 
静岡県下田市の八幡山 宝福寺(唐人お吉菩提寺、お吉記念館は、西ドイツ、英国に博物館として登録されている)付近の地図です。