下田八幡神社と大安禅寺

     静岡県下田市1−18−38

永正4年11月港内で漁夫が漁をしていたところ、木像一体が網にかかってきたが獲物が捕れない。 漁夫はおこってこれを海に捨てた。このような事が6回も繰り返された7度目の時、数十の鯛と共に又木像が網の中にあった。 これは福神だといって持ち帰った。
その夜、漁夫の夢の中にこの尊像が現れて、「吾は正八幡大神である。久しく海底に沈んでいたが、いま時が来たのでここに現れた。 この地は縁のあるところである。吾が像を安置すれば永久に当地の民を擁護しよう。」と仰せられる。これを聞いた人々は驚き喜んで、 村を上げてお告げのとおり牛頭天皇(現在の副祭神)の傍らに小さな社を設けてお祭りした。ここで神を敬い信仰する人が祈れば必ず それに応えられた。その後、長き歳月を経たが、朝比奈家二代が下田領主であった時、「正八幡宮は下田の鎮守本社である。」 と定められた。爾来下田の総鎮守として崇敬されています。
(下田八幡神社例大祭のHPより)

    写真をクリック頂くと、アルバムで見られます。

  下田八幡神社
大きな石作の鳥居が迎えてくれます。
  曹洞宗 乳峰山 大安禅寺
大安寺は初めは小田原にあって、寂用英順が再興し、近世初頭にこの地に移り、下田領主戸田忠次が開基大旦那となっている。 等寺を再興した寂用英順自賛の肖像画が所蔵されており、第三代下田奉行所石野八兵衛が立てた夢の墓と呼ばれる石塔が残されている。
薩摩十六烈士の墓(下田市指定史跡)が建立されている。貞亮五年(1688)3月島津藩の支藩日向佐土原藩の船が将軍家献上の御用材を 積んで江戸に向かう途中、遠州灘で大風に遭い、止むを得ず材木の一部を海に捨てて下田港に入港した。宰領と船頭の3人が御用材を 捨てた責任をとって切腹し、これを見た水主達も自分達だけ郷里には帰れられないと、15歳になった七蔵に事情を国元に知らせて 遺髪を届ける様にと言いつけて自害した。この様子を見た七蔵も後を追って切腹した。不可抗力の事情とはいえ、御用材を捨てた罪は まぬがれるとして16人の帰葬は許されず、郷里の菩提寺と同名の大安寺に合葬された。船に残っていた材木は当寺に寄進され、 本堂の柱になっている。
  乳峰山 大安禅寺の参道、このお国山門があります。
なお、幕末開港時のペリー艦隊入港中(1854)当寺において米人が遊女を写真に撮っている錦絵が残されている。 また、境内から清水が豊富に湧き出ており、町の水道源として利用された時期もあった。
 
静岡県下田市1−18−38 下田八幡宮と乳峰山 大安禅寺付近の地図です。